売国奇形サヨクの、批判できない被害者感情を表に出した悪質な工作活動
沖縄慰霊の日、誓う基地ノー
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1252314&media_id=2
気持ちは凄く良く理解できるんだけれども、基地ノーには全く賛同できませんね。
こういう批判できない人を表に立てて自説を絶対化するのは、売国奇形サヨクの常套手段。
こういう人を批判すれば「戦争大好きな軍国主義者だ」ってレッテル貼るしねw
だから、「気持ちは理解できるんだけれども、私の考えは違います」というしかない。
「平和平和」って唱えていて平和が実現すれば良いんだけど、現実は違うよね。
戦後の日本の平和は9条教じゃなくて、日米安保の賜物なんだから。
中国の覇権拡大の最前線にあるのが日本にとっては沖縄。
アメリカ海兵隊は派遣部隊だから日本を守らないという人も居るけど、
台湾有事や朝鮮半島有事に派遣される事を考えれば、日本を守ると同義になるよね。
仮に台湾や南朝鮮が中国や北朝鮮やロシアの影響下になったと考えてごらん。
台湾や朝鮮半島南部という緩衝地帯を失って、日本の脅威は格段に増すよね。
だから地理上、地政学上、沖縄に基地はなくてはならないという結論になる。
米軍が撤退する局面になったとしても、今度は自衛隊が大規模駐留しなければならない。
中国その他と対峙する局面が続く限り、沖縄から基地が無くなる事はない。
菅さんは「沖縄独立すれば?」とか言ってるらしいけど、そうなれば即、中国の属国だから。
要するに、米兵が人民解放軍の兵士に代わるだけ。
チベットとかトルキスタンの惨状を提示するまでもなく、沖縄にとっては最悪の未来になるよね。
<沖縄慰霊の日>亡き兄に誓う「基地ノー」 今も続ける運動
(毎日新聞 - 06月23日 11:53)
「あの戦争で生き残ることは生やさしいことではなかった」。防衛隊に召集された兄金助さんがいつ、どこで戦死したのか今も分からない。島袋さんも、九死に一生を得た。毎年この日が近づくと、思い出したくない当時の記憶がよみがえる。
戦前は南部の糸満で暮らしていた。1945年4月に米軍が沖縄本島中部に上陸し、本格的な地上戦が始まると、目の不自由な母カマさん、小学生だった弟盛幸(せいこう)さんと、安全な場所を探して逃げ回った。
「雨のように降ってくる弾より、死体を踏みつけることの方が怖かった」
ある日、親子で身を隠していた壕(ごう)が米軍に発見された。「出てこい」の呼びかけを無視したら、火炎放射器を浴びせてきたため、たまらず母と弟を連れて飛び出した。島袋さんは左半身にやけどを負うなどしたが、親子3人は生き残った。しかし、兄の消息は分からないままだ。
56年に米軍キャンプ・シュワブが開設されたのに伴い、辺野古に移り住んだ。戦後結婚した夫が米軍基地で働いていたからだ。島袋さんも基地内の将校宅でメイドの仕事をした。生活のためだ。だが、ベトナム戦争が始まった時「戦争に苦しめられたのに、戦争に加担したくない」と基地での仕事を辞めた。
沖縄戦では多くの住民が戦闘に巻き込まれて命を奪われ、戦後も戦争の後遺症や食糧難、そして米兵の犯罪に苦しんだ。それなのに、辺野古への移設を強行しようとしている政府。島袋さんは「許せない」と思う。
攻撃を避け夜間に逃避行中、死体が浮いていた水たまりの水を気づかずに飲んだ。「今思い出しても吐き気がする。こういう経験をしていないヤマトの政治家が、沖縄にまた基地を造ろうとしている。まず死人の血を飲んでみろと言いたい」
母、弟、夫に先立たれ、島袋さんも足が衰え外出の時は車いすに頼るが、今も基地反対運動に参加し続ける。「自分が生きている間は基地を造らせない」。亡き兄にそう誓う。
◇平和祈念公園で遺族ら冥福祈る
平和祈念公園には早朝から花束を手にもった遺族の家族連れらが続々と訪れた。照りつける日差しの下、犠牲者の名を刻んだ平和の礎を指でなぞり、手を合わせ、涙ぐむ姿がみられた。
妻と2人で訪れた沖縄県宜野湾市の玉那覇祐正さん(77)は、玉那覇さんの父親や妻の父親らが刻銘された場所で手を合わせた。玉那覇さんは目を潤ませながら「沖縄戦は本当に地獄だった。思い出すのもつらく、戦争は二度としてはいけない」と話した。
一方、沖縄全戦没者追悼式の会場に向かう道路脇には「菅総理 普天間基地持って帰れ」と、民主党の地元市議団が掲げた横断幕も見られた。【井本義親】
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1252314&media_id=2
気持ちは凄く良く理解できるんだけれども、基地ノーには全く賛同できませんね。
こういう批判できない人を表に立てて自説を絶対化するのは、売国奇形サヨクの常套手段。
こういう人を批判すれば「戦争大好きな軍国主義者だ」ってレッテル貼るしねw
だから、「気持ちは理解できるんだけれども、私の考えは違います」というしかない。
「平和平和」って唱えていて平和が実現すれば良いんだけど、現実は違うよね。
戦後の日本の平和は9条教じゃなくて、日米安保の賜物なんだから。
中国の覇権拡大の最前線にあるのが日本にとっては沖縄。
アメリカ海兵隊は派遣部隊だから日本を守らないという人も居るけど、
台湾有事や朝鮮半島有事に派遣される事を考えれば、日本を守ると同義になるよね。
仮に台湾や南朝鮮が中国や北朝鮮やロシアの影響下になったと考えてごらん。
台湾や朝鮮半島南部という緩衝地帯を失って、日本の脅威は格段に増すよね。
だから地理上、地政学上、沖縄に基地はなくてはならないという結論になる。
米軍が撤退する局面になったとしても、今度は自衛隊が大規模駐留しなければならない。
中国その他と対峙する局面が続く限り、沖縄から基地が無くなる事はない。
菅さんは「沖縄独立すれば?」とか言ってるらしいけど、そうなれば即、中国の属国だから。
要するに、米兵が人民解放軍の兵士に代わるだけ。
チベットとかトルキスタンの惨状を提示するまでもなく、沖縄にとっては最悪の未来になるよね。
<沖縄慰霊の日>亡き兄に誓う「基地ノー」 今も続ける運動
(毎日新聞 - 06月23日 11:53)
「あの戦争で生き残ることは生やさしいことではなかった」。防衛隊に召集された兄金助さんがいつ、どこで戦死したのか今も分からない。島袋さんも、九死に一生を得た。毎年この日が近づくと、思い出したくない当時の記憶がよみがえる。
戦前は南部の糸満で暮らしていた。1945年4月に米軍が沖縄本島中部に上陸し、本格的な地上戦が始まると、目の不自由な母カマさん、小学生だった弟盛幸(せいこう)さんと、安全な場所を探して逃げ回った。
「雨のように降ってくる弾より、死体を踏みつけることの方が怖かった」
ある日、親子で身を隠していた壕(ごう)が米軍に発見された。「出てこい」の呼びかけを無視したら、火炎放射器を浴びせてきたため、たまらず母と弟を連れて飛び出した。島袋さんは左半身にやけどを負うなどしたが、親子3人は生き残った。しかし、兄の消息は分からないままだ。
56年に米軍キャンプ・シュワブが開設されたのに伴い、辺野古に移り住んだ。戦後結婚した夫が米軍基地で働いていたからだ。島袋さんも基地内の将校宅でメイドの仕事をした。生活のためだ。だが、ベトナム戦争が始まった時「戦争に苦しめられたのに、戦争に加担したくない」と基地での仕事を辞めた。
沖縄戦では多くの住民が戦闘に巻き込まれて命を奪われ、戦後も戦争の後遺症や食糧難、そして米兵の犯罪に苦しんだ。それなのに、辺野古への移設を強行しようとしている政府。島袋さんは「許せない」と思う。
攻撃を避け夜間に逃避行中、死体が浮いていた水たまりの水を気づかずに飲んだ。「今思い出しても吐き気がする。こういう経験をしていないヤマトの政治家が、沖縄にまた基地を造ろうとしている。まず死人の血を飲んでみろと言いたい」
母、弟、夫に先立たれ、島袋さんも足が衰え外出の時は車いすに頼るが、今も基地反対運動に参加し続ける。「自分が生きている間は基地を造らせない」。亡き兄にそう誓う。
◇平和祈念公園で遺族ら冥福祈る
平和祈念公園には早朝から花束を手にもった遺族の家族連れらが続々と訪れた。照りつける日差しの下、犠牲者の名を刻んだ平和の礎を指でなぞり、手を合わせ、涙ぐむ姿がみられた。
妻と2人で訪れた沖縄県宜野湾市の玉那覇祐正さん(77)は、玉那覇さんの父親や妻の父親らが刻銘された場所で手を合わせた。玉那覇さんは目を潤ませながら「沖縄戦は本当に地獄だった。思い出すのもつらく、戦争は二度としてはいけない」と話した。
一方、沖縄全戦没者追悼式の会場に向かう道路脇には「菅総理 普天間基地持って帰れ」と、民主党の地元市議団が掲げた横断幕も見られた。【井本義親】
コメント
投稿者:(2011年05月21日 03:52)
【非国民】蓼沼由理(タデヌマ)42歳 憲法九条死守を唱え、靖国参拝反対論者。「中国は死者を敬う崇高な国です!粗暴な日本とは違う!靖国参拝するな!靖国をつぶせ!死刑制度廃止!天皇制反対!愚かな日本人は中国に学ばなければなりません!」TEL090-5964-7969【大阪市中央区 石町 最寄り天満橋】
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